奈良の「そば処喜多原」 目次へ戻る □奈良の「そば処喜多原」 奈良での仕事を終えたその翌日、帰宅する午後の電車までに はまだずいぶんと時間があり、これといった予定もないので、 僕は東大寺へ行ってみることにした。 先年、南大門を描いた時に、この後の題材として心づもりし ていた場所へ行ってみたかったからである。 近鉄奈良駅を奈良公園へ向けて出る。東大寺へは、この先ま っすぐに登大路と呼ばれる車道に沿って行くのが近いが、それ では面白くない。 そこで、すぐ先を右に折れて東向通りの商店街を通って行く ことにする。観光客でにぎわうこの通りを南の三条通りへ向け てしばらく行くと、左にうっかりすると見過ごしてしまいそう なゆるい上り坂がある。その坂道を興福寺へ向けて歩く。北円 堂を左手に見て境内を横切り、五重塔の横を抜ける。 空は一面どんよりとした雲に覆われて、今にも雨が降り出し そうである。六月のこの日はすでに夏のような蒸し暑さで、 東大寺に着いて写生地を確かめ、大仏殿から正倉院へかけて歩 き、イチョウ並木を写真に撮り終えた頃にはさすがに疲れを感 じていた。 時刻は正午を回ったところだ。帰りの電車にはまだ十分な時 間があるが、今日はこれ以上歩く気にはなれない。これからま だ駅まで戻らなくてはならないからだ。 特に意識してそうなったわけではないが、いつの頃からか、 大仏殿からの帰り道は戒壇院からまっすぐ南へ向かう水門町の 通りに決まっていて今日も自然に足が向く。 戒壇院の石段を下りて、白い漆喰塗りの土塀が石垣の上に高 く続く道を行くと、やがて依水園の前で道は右へ曲がり、左に 知事公舎を見るとそこから風景はガラリと変わり、ひっきりな しに車が行き来する国道三六九号へ出る、 その道筋だ。 (下へつづく) |
さて、空腹感はないが、それまでに軽くても何か少しは食べ ておかなくては、と考える。戒壇院から少し行くと、右手に 「そば処喜多原」がある。 店の表は、軒先に長く水引のれんと呼ばれる丈の短いのれん をかけて、まるで木曽路の町並みを見るかのような、そんな作 りである。 店の入口はこじんまりとしていて、道路からトントンと一段 二段下りて入る。店内は落ち着いた雰囲気で、窓の外には明る い緑がキラキラと見える。 蒸し暑さのせいで食欲がない今日のような日には、ざるそば が一番である。運ばれてきたそばはやや細く短目なものであっ た。 つゆのほかにすすめられた食べ方があり、それは塩をつけて 食べるというもので、小さな器に少量の塩と、そこにさらにご く少量の鰹節の小片が入っていて、聞けば岩塩も入っていると のことである。 これはもしかすると、店主の意図した食べ方ではないのかも しれないが、箸の先で、その塩をそばの表面に軽くつける。そ して、そのままつゆはつけずに食べる。上品で優しい味がする。 うまく言葉では言い表せないが、じつにおいしい。そば自体が 短目であることが、塩だけで食べるために好都合である。なる ほどと納得する。塩、岩塩、鰹節、これらの微妙な配分量は、 ずいぶんと工夫を繰り返されたことであろうと感心する。つゆ と、塩を交互に味わう。満足であった。 勘定を済ませ、送られて表へ出ると、勝手口から姿を見せた 主人もが、ありがとうございましたの言葉をかけてくれた。 疲れて食欲がなく、気持ちがふさぎ気味であった午後のひと ときが、おかげで明るくなった。 おりしも通りかかった、修学旅行らしい小学生の一団に混じ って、僕は駅へ向かった。 上へ戻る |