飛騨白川郷のこと 目次へ戻る □飛騨白川郷のこと 白川郷とは、日本海に流入する庄川(しょうがわ)の流域、 岐阜県大野郡荘川(しょうかわ)村(以下、文中の地名は全て 合併前の旧地名)と隣接する清見村の一部、そして同じく大野 郡白川村のことをいい、荘川村と、清見村の一部を上白川郷、 それより北の白川村を下白川郷という。切妻造りの合掌家屋が 残ることで知られ、多くの観光客が訪れる白川村荻町だけを白 川郷と呼ぶのではない。 岐阜県のほぼ中央を南北に結ぶ国道一五六号を北へ向かう。 郡上八幡から高鷲(たかす)村を経て荘川村牧戸に至り、白川 村を通って越中に至るかつての白川街道である。 長く続く山間部の上りの道を行き、上りきるとそこは太平洋 と日本海の分水嶺である「ひるがの高原」である。 高原を北へ下りて庄川にかかる橋を渡ると、そこは大野郡荘 川村牧戸の交差点であり、すぐ近くに向牧戸城跡がある。室町 時代、寛正(かんしょう)元年(一四六〇年)将軍足利義政の 命により内ヶ島為氏(ためうじ)が白川郷に入り、ここに向牧 戸城を築いた。 当時、白川郷では一向宗の正蓮寺(後の照蓮寺)が武力によ る勢力を強めており、内ヶ島氏と対立したが、寛正五年(一四 六四年)庄川を下った白川村保木脇に帰雲城(かえりくもじょ う)を築き居城とした内ケ島氏はこれを討ち、金鉱山に恵まれ たこともあって、後述する天正の大地震によって一族が滅亡す るまでの百二十年余り四代にわたって繁栄したのであった。 白川村荻町の集落の北、標高五四八㍍、集落から六十㍍ほど 上ったところ、東からの尾根が庄川へ張り出した小高い山の上 に往時荻町城があった。この城は内ヶ島氏が寛正五年、向牧戸 城から保木脇の帰雲城(かえりくもじょう)に移った後に整え られたもので、内ケ島氏の重臣であった山下氏が代々治めたも のである。 (下へつづく) |
さて、牧戸の交差点から飛騨高山へ向かう国道一五八号と分 かれ、庄川に沿って北へ向かう。このあたり、庄川の流れが御 母衣のダム湖に変わるところであるが、ダム湖の水位が低いと きには、かつて人々が暮らした村の跡が湖底に姿を現すことが ある。 富山湾で日本海に注ぐ庄川の最上流部である荘川村には、古 くからその流域にいくつかの集落が点在した。昭和三十六年に 完成した御母衣ダムの湖底にもそれらの集落およそ二百三十戸 があり、千二百人が暮らした。 ダム湖の湖岸、国道一五六号の道路脇に「荘川桜」と呼ばれ る二本の大きな桜の木が見えてくる。ダムの完成により水没し た荘川村中野の光輪寺と照蓮寺の境内にあった樹齢およそ五百 年の桜の老木で、湖底に取り残されることを惜しんだ多くの人 たちの努力によって現在地に移植されたものである。 白川郷に合掌造りの家屋が建ち始めたのは江戸時代の中期。 比較的農耕地に恵まれた荘川村には寄棟式入母屋造りが。主と して養蚕によって生計を立てざるを得なかった白川村には切妻 造りの合掌家屋が多く建てられた。 御母衣ダムの少し下流、国指定の重要文化財旧遠山家住宅は 切妻造りの代表的なもので、間口十五間、奥行き九間、四階建 ての大規模なもの。一階は住居に、二階から上四階までは養蚕 に使われた。 農耕に適した平坦な土地が少なく、男子が結婚し分家しても 住まいに当てる土地に事欠くこの地方では、戸主と嫡子以外は 嫁をとることができず、兄弟はもちろん、伯父(叔父)、伯母 (叔母)とその子まで、ときには四十人ほどが一家として一つの 戸籍を形成する、いわゆる大家族制がとられることがあった。 ただ、合掌造りの家屋に住む家族がすべてこの制度であったか というとそうではなく、代表的なものは、およそ数戸であった という。 遠山家住宅を後に庄川に沿って北へ向かう。平瀬を過ぎるこ ろ、庄川の対岸右手奥に大規模な崩落によって山頂直下から山 肌を削り取られた山が見えてくる。 (下へつづく) |
このあたり白川村保木脇で、かつての戦国時代、豊臣秀吉の 頃、内ヶ島氏理(うじまさ)の居城であった帰雲城(かえりく もじょう)があったところ。大崩落をした山は帰雲山という。 一五八五年、天正十三年旧暦十一月二十九日深夜、中部地方 から近畿地方の広範囲にかけて最大震度七の大地震があった。 いわゆる天正(てんしょう)地震といわれるもので、活断層に よる直下型の大地震であった。大垣城や長浜城が倒壊、京都の 三十三間堂においては仏像六〇〇体が被害を受け、伊勢湾、若 狭湾で津波が発生したという。 この突然の大地震により庄川右岸の帰雲山は山体の西半分が 崩壊、その土石流が降り積もった雪と共に谷を流れ下った。大 量の土石により庄川は埋めつくされ、川の流れがせき止められ たという。 内ヶ島氏理の居城であった帰雲城の位置については諸説があ りはっきりしないが、いずれにしてもこの夜の大崩落によって 城と城下の集落は全て埋没、内ヶ島一族は一夜にして滅亡した のであった。 国道一五六号は保木脇を過ぎ鳩谷ダムの湖岸を行くと、やが て合掌造りの集落荻町に入る。 一九七六年、長野県の妻籠宿らとともに我が国で最初に国の 重要伝統的建造物群保存地区に選定され、さらには、一九九五 年世界文化遺産に登録されて多くの観光客が訪れている。 荻町の町並みを過ぎ、庄川を渡ると白川村役場などがある鳩 谷で、さらに北へ向かうと、富山県との県境が近いと思われる あたりで庄川に合流する加須良(かずら)川という川を越える。 かつて、その川の中流に合掌造りの戸数八戸ほどの加須良の 集落があった。そして、その集落から小さな峠を越えたところ、 岐阜と富山との県境である境川の中流に、やはり合掌造りの戸 数六戸の桂(かつら)という集落があった。冬は豪雪のため陸 の孤島となる二つの集落は、茅葺き屋根の葺き替え、冬の雪下 ろし、田植え稲刈りなど、お互いに助け合うことで日々の暮ら しが成り立っていた。 (下へつづく) |
ここ庄川の流域は豊富な電源開発の地点に恵まれ、いくつか のダムができた。そのことによって、住民の暮らしに変化が起 こり、近代化していく集落とその変化から取り残された集落と の間に生活の水準に大きな格差ができた。さらには度重なる豪 雪にえられず、これら山深く孤立した集落に集団離村の動きが 起こった。 昭和四十二年加須良の集落が集団で離村。続いて四十五年十 一月、隣り合う桂集落も集落の存続が難しくなり後を追うよう にして集団離村した。 桂集落の跡は、その後建設された多目的の境川ダムのダム湖 「桂湖」の湖底に沈んだ。ダム湖まで二車線の立派な道路がで きた今、湖岸にはビジターセンターやキャンプ場ができている。 白川村荻町は今、隣り合わせる五箇山の菅沼、相倉集落とと もに世界文化遺産に登録され、多くの観光客が訪れている。あ たりの風景も、そこに暮らす人々の生活も大きく変わった。 白川郷を通り抜ける高速自動車道はもちろん、荻町にバイパ ス道路もないころ、集落にはまだ静かな山村の暮らしがあった。 民家の庭には洗濯物が干され、農作業の資材などがあってごく 自然な暮らしの様子が見られた。長年の風雪に耐え、ところど ころ朽ちかけた合掌造りの茅葺き屋根もそれがごく自然な風景 であった。観光客といってもわずかで、民宿を営む合掌造りの 民家に泊まっても、客はほとんど自分一人だけで静かな夜をす ごすことができたのであった。 かつて陸の孤島と呼ばれたこともある飛騨白川郷。四季の移 り変わりは今も変わることなく、短い夏が過ぎ秋が深まれば、 家々の軒下には雪囲いが作られ、やがてくる深い雪の季節を迎 える。 上へ戻る |